1951年

1950年代

1951.3.24

【職業野球新聞 1951年3月24日】存続の危機に立たされている広島カープの問題で、セ鈴木龍二顧問が広島河口豪球団代表代理と会談し、カープ存続を正式決定。新聞各紙がこれを報じた。同顧問は15日にもカープ側の存続意思を了承した旨を伝達しており...
1950年代

1951.3.20

【職業野球新聞 1951年3月20日】カープ存続問題について広島石本秀一監督が広島県庁前で存続の為の資金を募る「後援会構想」を改めて訴えた。自治体・職場・個人らに出資を募り、株券を配布してそれぞれがオーナーになって貰うという構想で、16日に...
1950年代

1951.3.16

【職業野球新聞 1951年3月16日】カープ経営危機に関して中国新聞紙上で石本秀一監督が「このカープをつぶせば日本に二度とこのような郷土チームの姿を見ることは出来ぬだろう、私も大いに頑張る、県民もこのさい大いに協力してカープを育ててほしい」...
1950年代

1951.3.15

【職業野球新聞 1951年3月15日】存続が危ぶまれる広島のナインがセ・トーナメント出場の為に上阪。甲子園内控室をセ鈴木龍二顧問が訪れ、広島球団代表・監督・監査役との会談の結果、カープ継続を了承した旨を選手に直接伝えた模様。同氏は1月に「カ...
1950年代

1951.3.14

【職業野球新聞 1951年3月14日】経営悪化を理由に広島カープが「球団解散・大洋と合併」を決定したとNHKラジオが報道も、石本秀一監督が役員会を説得して撤回。カープはこれ迄に寿屋・専売公社・日生・アサヒに球団保有を持ちかけるもまとまらず。...
1950年代

1951.3.1

【職業野球新聞 1951年3月1日】西日本パイレーツを吸収合併した西鉄クリッパースが「西鉄ライオンズ」に名称変更。パイレーツを擁していた西日本新聞が紙上で公募したもので約1万5千通の応募があったという。巨人から招聘した三原脩氏は当初見込まれ...
1950年代

1951.2.25

【職業野球新聞 1951年2月25日】巨人川上哲治、大阪藤村富美男、名古屋杉下茂、松竹小鶴誠の4選手が米3AのSFシールズ春季キャンプに参加。日本球界と関係が深いシールズのレフティ・オドール監督の招待に応じたもので、川上には「将来の日本球界...
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1951.2.24

【職業野球新聞 1951年2月24日】GHQ経済科学局長ウィリアム・マーカット少将がセ・パ両リーグに対して双方を統制する「職業野球連盟の組織」と「コミッショナー制の採用」を勧告。開幕に間に合わせるようにとも加え、関係者は対応に大わらわ。少将...
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1951.2.19

【職業野球新聞 1951年2月19日】セ中村三五郎理事長(ドラゴンズ代表と兼務)がオープン戦中止を発表。セ・パ間での選手引き抜き泥沼化が理由。1949年オフの球界再編以降引き抜きが常態化しており、契約や移籍金を巡る争いが泥仕合になっている。...
1950年代

1951.2.7

【職業野球新聞 1951年2月7日】西鉄との合併に伴って西日本監督から西鉄監督に横滑りした前巨人総監督の三原脩氏を後追いするように1月20日に巨人を退団した青田昇選手が巨人復帰。「自分の問題で両リーグの協調が破れては申し訳ない。三原さんに了...
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